ぺんてるの製品は、サインペンやボールペンなどの筆記具をはじめ、えのぐやクレヨンといった画材など、大変に幅広い。様々なジャンルの製品があるものの、それらを 1 つのキーワードでくくることができる。それは、人が「表現する」時に手にする道具であるということ。
そうした思いを込め、このブログのタイトルは「表現の道具箱」としている。
ぺんてると「表現」は、切っても切り離せない関係にある。
中でも、宮永岳彦さんはぺんてるにとって最初の表現者であると言えるかもしれない。
ぺんてるの顔であり続けている「ぺぺ&ルル」を生み出した人物であるからだ。

宮永 岳彦(みやなが たけひこ)

神奈川県秦野市立「宮永岳彦記念美術館」
となりは市営日帰り温泉施設「弘法の里湯」が併設されている
その宮永岳彦さんの数々の作品が所蔵されている「宮永岳彦記念美術館」を訪ねてきた。
そこには、「ぺぺ&ルル」とはまた違った世界観の絵が展示されていた。

私たちが訪ねた 2014 年 12 月中旬は、
「DESIGN 展」というテーマで作品が展示されていた。
■「ぺぺ&ルル」誕生のいきさつ
『「ぺぺ&ルル」誕生のきっかけには、一枚のポスター広告の存在がありました』そう語るのは、宮永岳彦記念美術館を担当する、秦野市教育委員会の林さん。
まだ戦後まもない頃、ぺんてるが「大日本文具」という社名で営業をしていた時代にまでさかのぼる。
当時、ぺんてる宣伝部に在籍していた従業員の若井 登さんは、地下鉄に乗っていた。すると、一枚の中吊り広告が目に飛び込んできた。それは、松坂屋デパートが学童用品を売り出すという広告だった。男の子と女の子が元気よく描かれていたものだ。戦後間もない世の中が暗い雰囲気だった時代だけに明るい色で描かれた元気な子供の姿は、これからの日本を象徴するかのように躍動感にあふれていた。この絵を描いたのが、当時松坂屋デパート宣伝部に在籍していた宮永さんだった。

宮永岳彦記念美術館(秦野市教育委員会)の林さん

ぺんてると宮永さんが出会うきっかけになった中吊り広告
若井さんは、この童画ポスターにすっかり魅せられてしまった。ぜひ、「ぺんてるのポスターを描いてもらいたい!」そう考え依頼をした。その申し出に対して宮永さんも快く引き受けてくれて完成したのが、下のポスターである。

当時、「ぺんてる」はパステルの商品名だった。その後に社名となっていく。
「ぺぺ&ルル」という愛称も実はこの当時はまだなく、ぺんてる60周年(2006年)の際に名付けられたものだ。
出来上がった絵は、男の子と女の子が楽しそうに絵を描いているもので、ぺんてる描画材にピッタリとくる童画であった。実は、一番最初の「ぺぺ&ルル」の絵は、パッケージではなく、ポスターとして描かれたものだった。
宮永さんが描いたポスターは、ぺんてる社内外で大変評判となり、その後に商品パッケージにも使われることになっていった。
「ぺぺ&ルル」の絵が、その後60年以上にわたり、ぺんてるの顔であり続けていくことになろうとは、宮永さんもその時には考えもしなかっただろう。

「ぺぺ&ルル」の絵は、1971年にリニューアルされ、今も多くの人たちに愛され続けている。
私は2代目の「ぺぺ&ルル」のパッケージを子供の頃に使っていた記憶がある。
■精力的に描き続けたポスターの数々
宮永さんが描くポスターの表現力に注目した企業は、ぺんてるだけではなかった。
銀行や医薬品メーカー、企業だけでなく法務省など多岐にわたっていた。それだけ宮永さんの絵は、多くの人たちの心をとらえるものがあったのだろう。




童画テイストのかぜ薬のポスター
その人気ぶりを物語るエピソードとして、宮永さんにポスターを描いてもらいたい企業間で、自社のポスターに使いたい!と原案スケッチの奪い合いが起こったほどだという。

スポーツ大会などのポスターも手がけていた
こうした数々の企業ポスターを描いていた頃も、宮永さんは引き続き松坂屋デパートの宣伝部に籍を置いていた。二足のわらじという訳だ。さすがに会社でそうしたポスター制作はできなかったので、自宅で創作活動を行っていた。そのため当時、寝る時間は自宅のある秦野市から松坂屋デパートのある銀座までの通勤電車の中くらいだったそうだ。

銀座の喫茶店で仕事の打ち合わせ
(宮永さんは左側)
そんな通勤で毎日使っていた小田急電鉄からもポスターの依頼が舞い込んでくる。江ノ島や湯河原温泉などの観光スポットへ旅行客を増やすという目的で描かれたものだ。いずれのポスターにも人物が中心に据えられているのが特長。今見ても新鮮だが、当時の人たちにとっては、その土地に行ってみたいという旅情をかき立てるものだったのだろう。

小田急電鉄では、ポスター制作にとどまらず、ロマンスカー(3000型)のボディカラーも宮永さんが手がけたという。
電車のカラーリングまで依頼するとは、小田急電鉄側がいかに宮永さんを信頼していたかが伺えるエピソードだ。

宮永さんがカラーリングを決めた小田急ロマンスカー

全日本空輸(ANA)のポスターも色々と手がけている。

ジェット機でハネムーンに行くということを訴えたポスター。
花嫁がウェディングドレスのまま、
すぐにハネムーンに行こうと花婿を誘っている臨場感に溢れている。

横浜開港祭のポスターは何年にもわたり描き続けた
松坂屋デパートの仕事をしながら、よくもこれほどたくさんのポスターを描いたと、ただただ驚かされるばかりだ。極めつけは各種雑誌の表紙画だ。中でも「週刊漫画TIME」は週刊誌なので、ハイペースでの創作が求められたはずだ。いずれの表紙画も女性が描かれているが、ひとつして同じものはない。

女性の様々な表情がPOPに楽しく描かれている。よくよく見てみると、髪が葉っぱだったり、魚やアイスクリームだったり、あるはずもないシチュエーションなのに、見ていて不思議としっくりとくる。週刊誌ということで、髪で季節感を表現していたようだ。


宮永さんが女性を描く時に、特に力を入れていたのが、目と口。この2つのパーツが表情を決めるからだ。この頃、特にたくさんの女性をポスターや表紙画で描き分けていた。その際、インプットとして日頃から行っていたのが街での観察だった。

「オール読物」や「別冊小説現代」といった表紙画も数多く手がけていた



仕事場の銀座は当時も流行最先端の場。街行く女性やデパートのショーウィンドウに並んだマネキンなどの観察を行い、そこからインスピレーションを受け、女性の表紙画を量産していた。自ら「街角の絵師」とも言っていたそうだ。
宮永さんのこうした旺盛な仕事ぶりは、作品点数にとどまらない。現在のポスター制作と言えば、全体を監督するアートディレクターを中心にイラストレーターやコピーライターといった人たちが共同で制作していくが、宮永さんの当時のスケッチをまとめたスクラックブックを見ると、スケッチの段階で中心となる人物をどう描くか、どうレイアウトするか、何色にするか、文字はどこに入れるかに至るまでほぼ一人で行っていた。一人で何役もこなしていた訳だ。

宮永さんのスケッチブック。
スケッチの段階で配色やレイアウトが緻密に描かれている。


■自分のために描いた油絵

ポスターや表紙画は、依頼主があってはじめて成立するものだ。依頼主の意向をくみ取って、それを一枚の中に最も伝わりやすいものに仕上げていく。そうした仕事と併行して描いていたものに油絵がある。




油絵では、自分の好きなものを自由に描いていた。描く対象はやはり女性。生涯、宮永さんは、美しいものをより美しく描くことをテーマにしていた。
こうした油絵の作品の中にも宮永さんの多才ぶりはみてとれる。キュビズムを感じさせる抽象画的なものから写実的に描いたものなど色々な表現で描かれている。中でも『光と影の華麗なる世界と称される』「宮永美人画」という一つのジャンルを作り上げたスタイルはことに有名だ。

海外旅行に行った際に目にしたステンドグラスに影響を受け、
その後の作品では背景にステンドグラスを取り入れてものがいくつもある

透明感のある空間の中で、やさしくさしこむ光が女性にあたり、暖かみを感じさせる。ポスターで描いてきた女性とは全く違うスタイルだ。

日伯(ブラジル)文化協会からの依頼で描かれた「皇太子・同妃両殿下御肖像画」。宮永さんは両殿下と面会し、ご本人いわく「心のスケッチ」により、イメージをふくらませて描いたという。明治以降、皇室の肖像画を正式に描いたのは、宮永さんだけだったという。

なんと、コーリン鉛筆のポスターも手がけられていた
土橋が注目したポイント
- 宮永さんの作品を見て感じたのは、その多才ぶり。童画から女性のポスター、油絵に至るまで、全く違うスタイルがそこにはあった。様々な表現を生み出せる「引き出し」の多さに驚かされた。
- 今回、展示されていたポスターの中で、現在も使われ続けられているのは「ぺぺ&ルル」だけだった。「ぺぺ&ルル」には時代を超越した優しい子供の表情がある。宮永さんは、大の子供好きだったそうで、その優しいまなざしで描いたからなのだろう。
■宮永 岳彦(みやなが たけひこ)1919~1987年

静岡県磐田郡(現・磐田市)生まれ。名古屋私立工芸学校(現・名古屋市立工芸高等学校)卒業。1946年復員後、松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務。勤務の傍ら、秦野市、東京都新宿区にて創作活動を行い、油絵をはじめ、小田急電鉄や全日空空輸のポスター、童画、雑誌の表紙画、挿絵、水墨画など、多彩な作品を残しました。
1947年「二紀会創立展」に参加。以後二紀展にて「褒賞」、「同人努力賞」、「菊花賞」等受賞。
1974年「皇太子・同妃両殿下御肖像画」を謹筆。
1978年「平和憲法公布記念式典図」を制作。
1979年「日本芸術院賞」受賞。1980年「第一回国会開会式記念式典図」を制作。
1986年二紀会理事長に就任。「紺綬褒章」受章。
1987年4月19日逝去。「勲三等瑞宝章」受章。
2001年神奈川県秦野市立「宮永岳彦記念美術館」開館。

静岡県磐田郡(現・磐田市)生まれ。名古屋私立工芸学校(現・名古屋市立工芸高等学校)卒業。1946年復員後、松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務。勤務の傍ら、秦野市、東京都新宿区にて創作活動を行い、油絵をはじめ、小田急電鉄や全日空空輸のポスター、童画、雑誌の表紙画、挿絵、水墨画など、多彩な作品を残しました。
1947年「二紀会創立展」に参加。以後二紀展にて「褒賞」、「同人努力賞」、「菊花賞」等受賞。
1974年「皇太子・同妃両殿下御肖像画」を謹筆。
1978年「平和憲法公布記念式典図」を制作。
1979年「日本芸術院賞」受賞。1980年「第一回国会開会式記念式典図」を制作。
1986年二紀会理事長に就任。「紺綬褒章」受章。
1987年4月19日逝去。「勲三等瑞宝章」受章。
2001年神奈川県秦野市立「宮永岳彦記念美術館」開館。
■「宮永岳彦記念美術館」現在開催中の企画展
「宮永岳彦 郷愁の情景展」(秦野市制施行60周年記念)
2015年2月4日(水)〜8月9日(日)